耳があっても聞こえない:アドヴェントの日曜学校
街ではクリスマスの飾り付けを楽しんでいる時期ですが、教会ではじき誕生するイエスキリストを待ち望むアドベントの期間であります。60回以上もクリスマスを過ごすと、どうも年々同じ思いで過ごせなくなります。この方はなんのために誕生して来て何がしたかったのかと、ついついふしだらなクリスチャンは考えてしまいます。
聖書ではイエスが誕生、伝道に出る、ひとが集まる、政治煽動だと罪を着せられる、極刑に処せられる、復活される、弟子達が世界中に伝道に出る、が大凡の記録だと、あまり勉強しない私でも耳知識で知るようになりました。プロテスタント教会は特に静かに牧師の言葉を聞き、静かに考える時間を貰うため、どうもクリスマスって大騒ぎのパーティ気分だけではいられなくなります。
ふと開いた聖書の一文に、目に留まった句がありました。イエスの伝道の噂を聞き、どんどんひとが集まり始めた頃、弟子達が皆の食事準備をするなか、パンの数が足りないことに気づき右往左往、それをイエスが厳しく叱ったイ場面がありました。「以前も同じことがあったじゃないか。パンの数を憂うことなくてもすべてが備えられる。君たちは耳があっても聞こえてないのか」と。
耳鼻科医だからこそ目に留まった言葉なのかも知れませんね。日々訪れる体に悩みのある方々に果たして充分な仕事ができているのか、来年も順調に仕事ができるのか、自分を含め家族皆が明日も元気でいるのか・・・。
そっか、自分が耳を持っているのに聞こえていなかったことに気づかされました。こうしてここにいられることに感謝し、すべての人たちの幸せを祈り、頂いた力を精一杯振り絞って、今日もまわりの人たちのために精一杯頑張ろっと。