「ひとはパンのみで生きるものではない」 広路教会日曜学校
プロテスタント教会は民家間に紛れて派手さはない、街頭に立って呼び込みすることもない、金銭を強要することもない、でも生きる意味を考え、祈る場所がある。幼少期意味わからず通った日曜学校で、未だなぜ教会に脚を向けるかわからない人間が子どもたちに何かを説く・・・。
「ひとはパンのみで生きるものではない」 ルカによる福音書4・4
祈るイエスキリストに悪魔は「神がいるなら石をパンに変えてみろ」というと、「ひとはパンのみで生きるものではない」とイエスキリストは返した。
パンって、一年掛けて田を耕し、種まき、肥料やり、麦を育て、刈り入れをする農民が汗水を流す。できた麦を運び、粉にする仕事がある。そこからパン屋さんに小麦粉が届き、パン屋さんは小麦粉をこね、発酵、朝早くからパンを焼き、店に出す。パンは口に入るまで沢山のひとが関わっていることを、誰しもが知っている。
もしそこら辺に転がっている石におまじないをかけたらパンになると、世界はどうなるのだろうか。
小学生がなりたい職業のひとつにYouTuberがある。生まれた時から寿司は回転ベルトに乗って出て来る。この寿司に一瞬だけ悪戯して録画し、SNSに載せれば大金が手に入る。まさに悪魔が囁く、石がパンに変わる瞬間だ。
もしこの寿司が回って来るまで大変な思いで魚を捕った漁師がいる、生きたまま届け、さばく、寿司を作るひとがそれぞれ沢山いることを知ったら、気持ちがどう変わるだろうか。
世の中忙しくデジタルで回っているが、食べきれないパンはいらないし、でも余ったパンをひとに分け与えたらどうなるか、など、考えさせてくれるスローな場所があってもいいかも。