桜に拘る日本文化
台湾で生まれ、小学校を終える頃に来日し、結婚直後渡米し四年弱住んでいました。そのため、自分の文化アイデンティティがいったいどうなっているのかわからなくなることがあります。ただ、来日して20年ほど経ったころ、妻から「最近寝言が日本語になってきた」と言われたことがあります。
友人たちに声かけし、名古屋駅で開かれる医療施設経営者が集まる楽しいイベント「Dr’sあるあるラウンジ」には、東京から参加する宮田胃腸内科皮膚科クリニックの宮田直輝先生がいます。彼は私が尊敬する、いわばトップクラスの多文化人かもしれません。祖父がタイに住んでいた縁でタイ語も話せ、私が話せる4つの言語よりも上に行くひとに初めて出会いました。才能を生かして日本で最も外国人が多く住む街・大久保で医療貢献をしています。
私の父は、当時の台湾で中国から来た敗兵による弾圧に失望し来日しました。台湾が親日である背景には、原住民や本省人の立場から見て、過去に支配したオランダ人や外省人と比べても、日本人が台湾の人々を自国民のように大切に扱ってくれたという事実が今も語り継がれていることがあります。
一方で、私の家庭では「すべての日本文化を受け入れ、一刻も早く日本に馴染むように」と教えられました。私は日本人と結婚し、子どもたちには観光としての台湾体験以外、台湾文化をほとんど残すことができませんでした。
そんな中、宮田家は持ち回りで世界に散らばった一家が集まる会合を開き、まるで小学校の同窓会のような大人数が集まります。日本国内の親戚が集まるのも難しいのに、旅費もかかるはずなのにどうして可能なのかと尋ねると、ある経済的に恵まれた先人がこのために私財を投じて財団を作り、集まるための資金を捻出したと聞きました。自分のことよりも後世のために重要なことを残すために私財を投じる——なんという崇高な思想でしょうか。
台湾から遠ざかって育った私は、研究が国際的に注目されるようになり、台湾の長庚大学の李学禹教授の関心を引き、彼のおかげで台湾に出かける機会が増えました。当時我々のもとにいた若手の林政祐先生は、その後成功大学睡眠センター部長を経て現在は耳鼻科の主任教授となり、昨年は全国の耳鼻科医が参加する総会を運営するほどの活躍をしています。残念ながら今や台湾の睡眠医学は日本を追い越し、私が呼ばれて講演するときは「日本が衰退した理由はこういう点にある、これから気をつけたほうがよい」といった内容に変わりつつあります。
長年日本文化の中で暮らしてきた私は、名古屋にいる台湾人の集いから声がかかるようになりました。行ってみるとそれなりの人数はいるものの高齢化が進んでおり、次世代の参加が少ないこと、意見の違いから集いがいくつかに分かれていることが問題でした。最大の理由は、日本文化に馴染めず、古いままの台湾的思想に固執する人がいることです。残念ながら、私が接する最近の台湾の若者たちは、台湾の良さを残しつつ国際感覚を持ち、日本よりもコンプライアンス意識が高い傾向があります。名古屋の台湾人組織にそう助言してもなかなか受け入れられず、時代とともに消えていくよりも、自分たちの主張に固執する方向に留まってしまうことが多いのです。
ところが面白いことに、年に一度秋に開催される「台中夜市」というイベントが徐々に知名度を上げています。台湾オーナーの屋台や台湾ハーフの歌手、原住民の踊りなどが並び、栄の大通りに5万人以上が集まる大きな祭りです。このイベントをゼロから始めたのは一人の日本人、加藤秀彦さんです。学生時代にバックパッカーとして台湾を訪れ、台湾に残る古き良き日本の面影と台湾人の心に触れ、もっと日本と台湾の交流でこれを伝えるべきだと考えて小さなイベントから始めました。台湾が大好きな藤田和秀名古屋市会議員が賛同し、名古屋で台湾文化を紹介する活動を続けています。台湾で地震があると、翌日から加藤さんと藤田さんが名古屋駅前に立って募金活動をする姿は感動的です。現在の名古屋の台湾と日本をつなぎ止めているのは、日本人です。
さて、私はいったい何人なのだろうか──ますますわからなくなりました。仕事が始まると医師人が前面に出て、食事はより健康的な和食を選びますが、台湾の味覚を忘れることはありません。今一度自分が何人なのか、今だよくわかりません。ただ、今年も仕事を終えてビル前にある桜を見ると、涙がこぼれそうになります。名古屋駅前から東に延びる桜通りから数えて1本目の桜、背後に移るハイテクタワー、この一枚がどこかで憧れた夢かも知れません。桜の心がわかる段階で、これこそ日本文化のすごさだと感嘆するのです。
