院長ブログ

還暦からの起業

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監修:めいほう睡眠めまいクリニック院長 中山明峰

 小生は台湾の耳鼻咽喉科医の家庭で生まれ、1970年突如日本に連れて来られ、両親から医者になるべしと洗脳のもと、日本語の学習と医学部受験準備で中学高校は机に向かう以外の記憶はあまり残っていない。1979年に愛知医大に入学、神奈川県から愛知県に転居した。両親には早く医院の跡を継いでほしいと期待されたが、卒業が近づくに連れ、開業に全く興味が持てない自分に気づいた。常に開業を遠ざける言い訳を探し、母校の大学院に行きたいと話し許しも貰ったが、大学院もあっという間に終わり、次の言い訳は留学だ、と考えた。しかし当時医局に留学経験者は皆無。暗中模索の中、自分で数十の大学にアプライしたが、唯一ある大学から返信があった。それが現在愛知医大と姉妹校提携している南イリノイ大学である。
 留学によって開業する気持ちはさらに薄れた。渡米時、既にメイヨークリニックに留学中の先輩が米国で同窓会を開いて下さり、数名とは言え志の高い卒業生が集まった。医師免許は世界に出ることができるパスポートでもあることに気づき、留学が人生のターニングポイントとなった。留学後、通常は関連病院に出向するところをすぐに講師にして頂き、南イリノイ大学との姉妹校提携に尽力、研究と教育に勤しむことができた。後に小生の講義に刺激を受けたという後輩の声を聞く機会もあり、この人生の選択も悪くなかったなと感じた。特に米国で知り合ったJohn Epley先生の「良性発作性頭位めまい症」の治療研究に携わり、初めての治療法となるEpley耳石置換法を世界に広めることができたことは、国際学者としての第一歩となった。
 愛知医大で准教授まで上げて頂いたが、本学卒業生としての使命を感じ、無謀と承知で教授選にチャレンジした。しかし舞台に上がることも無く選考で落選となり、自分の無力さと見えない圧力に、当時は泣くに泣けない気持ちであった。さらに選ばれた教授が数ヶ月後には辞職。あの時何が起きたのかと今でも同窓生から聞かれることがあるが、あの世でお会いしたら話そう。ところがこの出来事が自分の人生をさらに面白い方向に変えて行くとは、その時は思いもしなかった。
 当時名古屋市立大学耳鼻咽喉科教授で今は耳鼻科医の頂点に立つ日本耳鼻咽喉科学会理事長である村上信五先生が手を差し伸べて下さり、名市大へ移ることとなった。そしてここで二つ目のターニングポイントが訪れ、村上先生の元で学べたことが人生最大の財産となった。さらに愛知医大在職中、塩見利明先輩から鍛えられた睡眠医学が当時の名市大戸苅創理事長の目に留まり、睡眠医療センターを立ち上げる使命を拝した。それまでの私はめまい学を主に研究していたため、睡眠医学に携わるうちにメニエール病患者が難治性である原因に睡眠障害が合併しているのではないかと気づき、めまい患者の睡眠調査を開始した。この研究テーマが2008年に日本めまい平衡医学会で受賞し、2010年に国際雑誌に論文が掲載され、「メニエール病患者の睡眠脳波に異常がある」ということを世に発表することができた。この研究が盛り上がり、国内外から多くの医師達が留学で訪れ、外国からの講演招待も多数受けることとなった。頻繁にテレビ取材が入り、NHKが30分のドキュメンタリーを制作してくれたことは、一般への疾患の啓発にも繋がったと思う。
 一昨年恩人の村上教授が退官となり、気づくと自分も還暦間近。教室が若返り育てた若手が成長し、年寄りは退こうと考え、名古屋駅で睡眠医療を専門とする仁愛診療所に勤務することとなった。ところが数ヶ月で患者数が急激に増加し、診療所での対応が困難になってしまった。スタッフ増員にさらなる投資は難しいとのこと、継承する形として名古屋駅で新規開業しないかと提案があった。
 まさしく青天の霹靂、開業が嫌で逃げてきた人生だったのに、今さら開業、それも還暦。しかし目の前のめまいや睡眠障害の患者が難民として大量発生することも放置できないと考え、2021年6月22日に、名古屋駅前第三堀内ビル11階に「めいほう睡眠めまいクリニック」を開業することとした。還暦からの起業だからこそできる次世代の開業スタイルを模索しなら人生を楽しみたいと思う。

めいほう睡眠めまいクリニック・中山明峰


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