「霊柩車は死ぬまで一緒」ちゅうこっちゃ〜
クリニックは名古屋駅から道渡って1分。彼女が大阪から来た時は歩けないほどめまいが悪化し、お嬢様と駅前からタクシーに乗り、逆に車が道路事情でビルに近寄れず、駅よりも遠くで降ろされて歩いて来たと聞いた。新幹線で頻繁に通院し、昨年末からかなり改善した。大阪大好きだから治ったら遊びに行くねと約束し、やっと約束を果たす日が来た。
今日、初めてご本人は名店「スエヒロ」創業者のご家族と知ってびっくり。つがいとなった男性は友人の紹介で、最初のデートはドライブ。還暦過ぎた私が生まれる前の話なので、当時ドライブというと、すごいことでしょうね。信号で止まった時、たまたま前に霊柩車が止まっていた。するとその男は「死ぬまで一緒、ちゅうこっちゃ〜」と言って、縁起の悪さを笑顔に変えた。次に止まった時、前にバキューム車が止まった。「わしら運が着いとるのう〜」と、世の中にこんな面白いひとがいるかと思いつつ、少しずつ思いを寄せた。
戦後もののない時代、その男の母親はこれから電機が売れるとみて、日本橋で小さな電機部品屋さんを始めた。小学生だったその男は、なぜか軽々とそれらの部品をすべて暗記し、注文があると何千というパーツの保存場所から瞬時に商品を取り出した。来た客は女将に聞かず「坊やはどこだ」と、その男の子を呼んだ。その男は学校行くより商売が好きになり、中学を中退した。
学歴のない男にそう簡単に名門お嬢さんを渡す訳がない。足繁く通い、必ずうちの電気屋をでっかい会社にしてみせる、絶対上場させるから、お嬢さんを下さいと懇願した。そして念願の結婚、まもなく電気店は会社に成長し、1980年「Joshin電機株式会社」として全国に展開、上場企業となり、男は有言実行を果たした。
彼女の波瀾万丈な人生はそこから始まった。頑張りすぎた男は体を壊し、他界した。一家庭主婦が突然社長職に就かされた。そこからの話は想像するだけでぞっとする。
「ひとって、どうしてこうも利のために自分を見失うのだろうか」と、彼女の心の闇が見えた瞬間だった。
「私も白い巨塔にいたので、伝えたい気持ちはよく理解できる。ただ、今となっては、この道を選んだ私の方が幸せではないか」と、言葉を返した。「それにしても一主婦が社長として株主総会に出て、突き上げられることも多々あろうが、よく乗り越えたね」と聞いた。
「それが不思議と、あの頃よく主人の声が聞こえた。その声に従えたらすべてがうまく行ったのよ。それがね、最近聞こえて来ないので寂しい・・・」
「いやいや、なぜあなたがわざわざ名古屋に来たか、これでわかった。彼はまだあなたを見守り続けていると思う」
「実は先ほどから先生の言葉が、えらく彼の言うことと似ていると思っていた・・・」
あっという間に3時間経ち、帰りの電車に急がないと、涙がこぼれる。
今日のことをブログに書き残す許可を頂いた。日本の歴史の一ページを作った方と一緒にランチができたこと、これが幸福でなくて何であるか。表に拘るひともいれば、世の中には縁の下の力持ちがいる事実をどうしても多くの人たちに伝えたい。学問や力だけではひとを癒やせない、ただただそう思った一日であった。